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宮田珠己
東南アジア四次元日記
定価:本体価格1300円+税
(税込価格1404円)
※残部僅少
※カバー傷あり




解説
旅行人の本
季刊『旅行人』

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購入方法


第1章 笑う庭

 香港に来た。
 会社を捨て、ついに旅立ったのである。いきなり感無量だ。
 思えば旅立ちを決意してからここまで、本当に長い道のりであった。
 一度、社会に出た以上、「旅行に行きたいから会社辞めます」というようなそんな簡単な話では世間が納得しない。やはり社会人としての責任を全うし、社会の発展に寄与し、世界平和に貢献してはじめて旅立てるわけであるから、日々努力の積み重ねが必要であった。
 では具体的にどんな努力を重ねたのか、一体どう社会の発展に寄与したのか、という点が読者の気になるところであろうが、その全容については誌面の都合で 割愛する。ただ、仮に私が今後しばらくブラブラ遊び暮らし、働きもせずに旅行ばかり行ったとしても、誰も文句を言えないぐらいの大変な努力であったことだ けは申し述べておく。
 さて夜中の香港啓徳空港に到着し、迎えに来てくれていた友人とタクシーに乗って、香港島にある彼のマンションに着いたのが、ほんの30分ほど前のことだ。で、着いてさっそく私が何をしているかというと、ミッキーマウスのビデオを観ている。
 そんなもの旅に出なくたって観られるじゃないか、と思うかもしれないが、別に観たくて観ているわけではない。実は、半ば強制的に観せられているのであ る。マンションに着いた途端に、友人の1歳半の息子昭文が私をビデオの前に引っ張ってきて座らせたのだ。私と昭文は今日が初対面である。友人の話による と、なんでも昭文はミッキーの大ファンなのだそうだ。
 それが何だ。そんなことは私の知ったことではない。はあ、そうですかだ。ビデオなんか勝手にひとりで観ればいいではないか。
 私にとっては、今夜は待ちに待った旅の記念すべき最初の夜であり、見ず知らずのガキとそんなものを観るより、人生とか運命とかについてしみじみ考えたり、噛みしめたりしたいぞ。
 私が思い描いていた旅の始まりは、こうではなかった。
 夜の空港に到着し、イミグレーションを抜け、空港ロビーから外へ出る。不案内なバス乗場周辺をフラフラしていると、怪しいタクシーの運ちゃんが背後にに じり寄る気配。それをかわしつつ歩いていくと、ぶおおっという蒸し暑い一陣の風や、巨大扇風機でも回しているようなゴォーという大きな音とともに、ナトリ ウム灯のオレンジ色で遠近感を失った世界があたりをとり巻いて、ささやかな不安と緊張でムズムズしてくる。そんなとき、偶然ひとり旅の若い女性と知り合う のだ。そして意気投合したふたりは、いっしょに市街まで安宿探しに出掛けて行く。そんなシミュレーションだった。
 その不安や緊張や出会いこそが旅のはじまりの実感であり、そのときが日常から非日常へとスイッチする決定的瞬間でもある。しかし、今回は友人に迎えに来 てもらう段取りにしたため、宿や交通手段の心配もいらず、不安や緊張はちっともなかった。ましてやひとり旅の女性との出会いなどあるはずもなく、そのまま だらだらとミッキーマウスのビデオまでなだれ込んでしまったのだ。空港に迎えに来てもらったのは、自分がそうお願いしたのだから仕方がないとしても、もう 少し香港らしい、香港ならではの夜を迎えたいものである。
 さっきから昭文は有無を言わさぬ態度で画面を指しながら、いかにミッキーが素晴らしいか、ミンミ、ミンミ、と主張している。抵抗をあきらめた私が、もう 結論は出たのではないか、黙ってビデオ観ていればいいのではないかと思っても、どうやら昭文にとってこの問題は非常に深刻で微妙なものであるらしく、まだ 十分な論議がなされていないとでもいうふうに、ミンミ、ミンミとまっしぐらな目で私に返答を求めてくる。
「ミンミではなくミッキーだ」という私の重要な指摘もあっさり無視された。
 いい加減面倒くさいので、さっさと寝かせようと彼の好きなぬいぐるみを部屋の遠くへ放り投げ、犬のように取って来させたりして、早く体力を消耗させる作 戦でのぞんだが、昭文はますます喜んで走り回り、レゴブロックのいっぱい詰まった箱をドシャーと蹴散らかしたりして、私の仕事は増える一方なのであった。