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宮田珠己
わたしの旅に何をする。
定価:本体価格1400円+税
(税込価格1512円)


解説
旅行人の本
季刊『旅行人』


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購入方法


大型連休は全力でリラックスだ

 私はついこの間までサラリーマンであった。結局退職したのだが、ええぃ会社なんか今すぐ辞めてやる、そうだ、今すぐにだ、という強い信念を十年近く持ち続けた意志の堅さが自慢である。
 サラリーマン時代の私は、年三回の大型連休には必ず有給をくっつけてぐいぐい引き延ばし、いつも海外旅行にばかり出掛けては、上司に「たいした根性だ」 とスポーツマンのようによく褒められた。幸運にも私の上司はできた人で、私がいくら休もうが黙って旅行に行かせてくれた。帰って来てお土産を渡しても廊下 で挨拶してもまだ黙っていたほどだ。
 で、取得した連休は大型であればあるほど、中途半端な使い方では納得がいかない。最初のうちは外国をあっちこっち緻密に動き回っていたが、そうすると列車の予約だのホテル探しだの段取りばかりが多くなって、仕事の続きみたいでかえって疲れてしまう。
 こんなことではいかん、とあるとき私は考えた。
 ただでさえストレスの多いサラリーマンである。やはり連休はのんびり過ごさないといけない。そうやって必死でたくさんの場所を回るより、南の島でのんび りする方が仕事のストレス解消にどれほど良いかわからない。そうだ。サラリーマンは南の島だ。浜辺でのんびり寝そべって、全力でリラックスするのだ。そう だそうだ、連休はリラックスに打ち込もう。
 そしてその年のゴールデンウィーク、私は職場の同僚数人を誘ってフィリピンへ飛んだのである。
 セブとかはホテルが高そうだから、目指すはプエルトガレラというややマイナーなリゾートだ。本格的リゾートではないので安宿も豊富で、マニラからも近 い。何しろ休日は短いのだから、一刻でも早くビーチにたどり着き、激しくリラックスする計画であった。マニラの観光なんかどうでもいい。
 バスとフェリーを乗り継いで、プエルトガレラのスモール・ララグーナビーチに到着。海の透明度を基準に選んだだけに、ビーチエントリーで軽くファンダイ ブの二、三本を楽しむにはもってこいのビーチである。というとまるで私がスキューバでもやるかのようだが、ライセンスないから一般的にもってこいである。
 眼前に青々と広がる海に気もそぞろとなったわれわれは、すばやく宿を確保し、即座に海水パンツに着替えてビーチに踊り出た。打ち寄せる波の音に自然に笑 みがこぼれるが、その顔に仕事の疲れがにじんで、全員何だか頼りないようなうさん臭いような顔になっていた。しかし、もはやそんなことは問題ではない。今 まさに光り輝くサラリーマンの休日が実現しようとしているのだ。
 準備体操もほどほどに、われわれは狂ったように海に突進した。
 おりゃおりゃ、サラリーマンは南の島だ、仕事のストレス発散だあ!
 と思ったらウニを踏んだ。
 踏んだのは、先頭切って走っていった同僚のHである。痛ッ、痛タッ、とジタバタしながら何度も踏んでいた。海の透明度は高いものの、波のせいで底に何があるのかはっきりと見えなかったのだ。
 後に続くはずだった私は、彼の特攻隊精神に敬意を表し、波打ち際でその勇姿をしばらく見守った。
 踏んだウニは南の島では一般的に見られるガンガゼという種類で、これはトゲがやたら長い、というより全身ただトゲあるのみというおそるべき黒い固まりである。こいつのトゲは刺さるとすぐに折れて体内に残ってしまうのだ。
 Hの足には、数えてみると合計八本ものトゲが、それぞれ垂直に刺さって黒い点となって散らばっていた。さまざまな角度で刺さっていたから何度も踏んだの だろう。あるいはいろんなウニを個別に踏みしめてみたのかも知れない。とても痛そうである。こうして書いているだけでも何だか痛い。せっかくリラックスま であと一歩というところだったのに、ますますリラックスから遠のいてしまった。他人事であったことだけがせめてもの救いである。
 われわれはひとまず海をあきらめ、Hを宿へ運んで、トゲをトゲ抜きで抜くことにした。しかし、それは意外に太くて深々と皮膚に突き刺さっており、持参し た小さなトゲ抜きではちっとも抜けそうにない。ヤットコみたいなものはないか、と宿の人に聞くと、そんなものではダメ、と緑色の小さな果物を持ってきてく れる。それはカラマンシーといってフィリピンにはよくある柚子に似たフルーツだった。そして、
「これを塗ればオートマティカリー・ディサピアーよ」
 とその人は自信満々に言ったのである。
 なんと、カラマンシーで自動的に取れるらしい。
 さすが現地の知恵だ。そんな簡単な処置ですむとは。
 Hもわれわれもそれを聞いて大いに安心し、さっさとこの状況を脱してあらためてリラックスに邁進すべく、カラマンシーを絞って彼の足に塗りたくった。
 するとウニのトゲの黒い点々はみるみる小さくなって、やがてほとんど見えないぐらいになり、そのうちのいくつかは実際に消えてしまったのである。
 おお、なんという現地の知恵パワー。これで一件落着。めでたしめでたし……めでたいだろうか。
 黒い点が小さくなったり消えたのは確かに事実である。事実だけれども、それは取れたとは言わないんじゃないのか。
 宿の人は満足そうにウンウン頷いていたが、頷いてる場合ではないだろう。八本のトゲはHの体内奥深くへ潜行したのであって、かえって心配ではないか。
 そんなことでいいのか現地の知恵!
 われわれはその後、念願のリラックスを果たしたといえば果たしたのだけれども、どこかぎこちなさが残ったことは否めない。Hの足は数年たった今も何とも ないから、あれはあれで良かったのかも知れないが、ウニのトゲの潜伏期間については医学的に解明されておらず、というか誰も研究していないと思われるの で、今後彼がどうなっていくのか、突如発症しウニ男化する危険はないのか、未知の分野だけに状況はまったく予断を許さないのであった。