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平尾和雄
スルジェ
残部僅少
定価:本体価格2000円+税
(税込価格2160円)


解説
旅行人の本
季刊『旅行人』


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購入方法



プロローグ

「君はなぜ、英会話を身につけたいと考えているのだね?」と肩まで髪をたらし、あご髭を伸ばした講師が、聞きとりにくい英語で言った。
「私はインドへ旅行に行きたい、と思っているんです」
 嘘をついたわけではないが、英会話学校に通うことになった本当の理由を言うと、話がややこしくなりそうなので、ぼくは短く答えた。
 この三か月間、一度も笑顔を見せたことのなかった無愛想な講師が微笑んで、「インドかぁ。私も行ったことがあるけど、おもしろいところだよ」と言って立 ち上がると、黒板に大きな地図を描いて、彼の旅行体験やお薦めの街やルートについて、目を輝かせてまくしたて始めた。
「インドは南がいい。ティルチラパッリ、マドゥライ、トリヴァンドラム、バンガロール……。マドラス(現チェンナイ)とマレーシアのペナンを結ぶ、インドの客船があるのを知っているかい? あれは楽しかったなぁ。ベンガル湾を六日かけて横断するんだ」
 ヨーロッパを南下して、トルコ、アフガニスタンなどを陸路でたどってインドに渡り、東南アジアを北上して日本にやって来たというイギリス人講師の話に、 ぼくは「リアリ?」とか「ザッツ・グレイト」とか相槌を打っていればよかった。上のクラスに進級するための面接テストでのことだった。ぼくは会話といえる ほどのことはなにひとつ口にしないで合格し、上級クラスに進むことができた。
 円の中心角が三六〇度あることが常に変わらないように一ドルが三六〇円と決まっていて、大卒者の初任給が三万から四万円くらいだったころの話だから、日 本へ出稼ぎに来る外国人は多くなかったが、世界を旅する欧米人たちの間では、英会話学校の講師やクラブのホステスなどをすれば、日本でも結構いい金を稼げ ることはすでに知られていた。ぼくにペナン│マドラス航路の存在を教えてくれた英語教師も、そんな旅人のひとりだった。
 会社勤めをしていたぼくは、毎日夜遅くまで働かされるのが嫌で、定時に会社を出ないと間にあわない夜の英会話教室に通うようになったのだ。
「インドへ行ってみたい」と漠然と思ってはいたが、『地球の歩き方』も『格安航空券ガイド』もなかったし、「インドへ行ってきた」なんていう人はまわりにいなかったので、このイギリス人教師の話がぼくを本気にさせる最初のきっかけになった。
 もうひとつ、ぼくの旅立ちを力づけ、後押ししてくれたのは『世界の秘境』という雑誌だった。『漫画アクション』や『週刊大衆』を出版している双葉社から 出ていた隔月刊の雑誌で、「西アフリカ・ナントカ族の性の奇習」というような特集を毎号組んでいた。粗悪な紙に画質の悪いカラー写真を載せた、一見いかが わしい感じの雑誌で、まだキヨスクという言葉が日本語になかったころの国鉄の駅のホームの売店などで売られていた。
 誰が読むのだろうかといぶかしくなるような雑誌だが、ぼくはそれを愛読していた。若手の人類学者が小遣い稼ぎに書いた原稿が載っていたり、まだ無名だっ た藤原新也が写真や文を寄せていたりして、ぼくには読みごたえのある雑誌だった。アジアやアフリカ、中南米などの旅の情報も、しだいに掲載されるように なっていったが、「もはや世界に秘境は存在しない」と宣言し、やがて廃刊になってしまった。
 小山海運という、これも今は存在しない船会社が、貨物船に客を乗せてくれるという情報も『世界の秘境』に教えられたものだった。日本の若者たちに海外体 験をさせたいという船会社の社長の考えで、毎回数人の客を乗船させるのだという。ヤマハのオートバイなどを積み込んだ二千数百トンの貨物船は、日本の、そ のときどきによって違うどこかの港を出港してシンガポールへ向かう。途中マレーシアやインドネシアの港に何か所か立寄って、ボルネオ(カリマンタン島)の どこかの川をさかのぼった河港でラワン材を積込んで日本へ戻る、という四〇日あまりの航海だ。最初の寄港地、シンガポールまでの運賃は三食付きで四万円あ まりだったと思う。
 もちろん当時でも羽田から香港やバンコクを経由して、カルカッタやデリーに行く空路はあったが、船と列車などを乗り継ぎ、飛行機を使わずにインドにたどり着くことに、ぼくはこだわっていた。
 インドまでのメドがついたので、ぼくは銀座にあるインド政府観光局を訪ねた。そこでインドの鉄道路線地図や主要都市の市街図など、タダでもらえるパンフ レットをどっさり手に入れることができた。その中には日本の新聞に大きく掲載された、インドに関する記事のコピーも混ざっていた。

「インドに何を求めて……、流れこむ世界の若者たち」――まるで世界中が、インドに何かを求めているようだった。インド各地の空港に旅客機が着くたびに外 国の旅行客が続々とおりてきた。シャツの胸をはだけ、パスポートと財布を入れた袋を首からさげ、サンダルばきというヒッピースタイルの若者たちが、やたら に多い。おりしも、インドは雨期で、ガンジス川はあふれ、いたるところが水びたしだった。だが若い旅行者がめざすのは観光ではない。組織され、管理され、 息づまりそうな現代社会を脱出し、人間がありのままに生きるこの国に、何かを発見しようとしてやってくるのだ。この夏インドを旅した私は、ボンベイで、カ ルカッタで、アグラで、ガヤで、カジュラホで、ベナレスで、それを見た。 (朝日新聞。昭和四六年九月六日、朝刊)

 こんなリードで始まる森本哲郎記者の署名入りのリポートは、ヴァーラナーシー(ベナレス)のガート近くの一泊一ルピー(約四八円)の安宿に滞在するヨー ロッパから来た若者たちの姿や言葉を、好意的に、というより讚えるような調子で伝えていた。その記事が大量にコピーされ、観光宣伝のパンフレットと一緒に インド政府観光局のカウンターに並べられる。ぼくが旅立とうとしていた七〇年代初頭というのは、そんな時代だった。
 出発地は神戸か横浜、あるいは釧路になるかもしれないという、出航日も決まっていない貨物船の乗船申し込みをすませた直後の一九七一年一二月三日、東パ キスタンからの大量難民の流入を契機に、第三次インド・パキスタン戦争が勃発した。外務省からは渡航自粛の要請も出て、「アリャリャ、仕事もやめて待機し ているのにぃ」と毎日インド関連のニュースを追っていると、一六日にはダッカ陥落。東パキスタン軍は無条件降伏し、翌一七日には西部戦線も停戦。泥沼化し ていたベトナム戦争(一九六〇〜七五)と違って、印パ戦争は二週間たらずで終結。バングラデシュが独立したのだった。
 もうひとつ、ぼくが心待ちにしていたのは、史上初の円の切り上げだった。一ドル=三〇八円でスタートした変動為替相場制に移行したのは、一二月二〇日。 大方の予想を上回る、大幅な切り上げになった。ずいぶん得をしたような気がしたが、それでもぼくが手にしたのは一〇〇〇ドル足らず。それが二年近く働いて 貯めた全財産だった。
 一九七二年一月一五日。冷たい雨に煙る名古屋港の埠頭を離れる小さな貨物船を見送ってくれたのは、雨ガッパを着こんだ船会社の職員がひとりだけ。ぼくは二五歳になっていた。